人のために生き人のために死んだ

野口英世は、医者になりたかったのですが、幼い頃重度のやけどを負い手が自由に動かなくなりました。

しかし野口英世はあきらめる事無く研究者の道へと猛勉強します。

薬などを作って医者と同じように、多くの人の命を救おうとがんばります。

当時北里柴三郎というえらい先生がおられました、野口英世は猛勉強の甲斐あってこの先生に認められることとなります。

そこでこの北里先生によってアメリカでの研究をすすめられ、アメリカでの研究が始まるわけです。

アメリカのロックフェアー研究所というところで当時としては、世界一すごいと言われていた一流の研究者が世界中から集まってくる、すごい研究所に勤めることとなります。

野口英世がすごいのは、ここからです野口英世は誰よりも早く来て誰よりも遅く帰る、他の研究者から驚かれるほど研究に研究を重ねます。

他の研究者から信頼を得た野口英世は、南アメリカの方で黄熱病の研究に危険をかえりみず行く事になります。

そこで黄熱病の原因である菌を発見します。

これが開発され野口ワクチンと名前がついた薬を作ったのが最初の業績です。

その頃にアフリカでも黄熱病が発生していました。

アフリカでの黄熱病を研究している学者が野口ワクチンを使っても、この野口ワクチンがアフリカの黄熱病には効果がないという報告を受け、奥さんの反対を押し切って野口英世は今度はアフリカに渡ります。

そこで研究につぐ研究を重ね、アフリカで発症した黄熱病の菌を発見しようと努力をするのですが、残念なことに自身も黄熱病にかかり命を落すことになります。

何故野口英世はアフリカでの黄熱病の菌を発見できなかったのか、昔、明治時代に使われていた顕微鏡は、学校などの理科室にあるような顕微鏡で、どれだけ大きくても1000倍ぐらいにしか見ることが出来なかったのです。

原因は、それよりもはるかに小さな菌があったからです。

その後新しい顕微鏡が発明されます。

この顕微鏡は、従来の顕微鏡とはちがい、電子顕微鏡で1000倍だけではなく、10万倍や100万倍のものまで見えるようになりました。

それによって黄熱病の小さな菌が発見されることになりました。

そしてアフリカでの黄熱病は収まることとなります。

このように歴史があります。

そこで人類の為に、自分の命を犠牲にしてまで研究した事が、研究者たちから賞賛され、なんとしても野口の遺体をアメリカに持ち帰ろうと、野口の遺体を鉄に頑丈にからめて、黄熱病の菌が漏れないようにしてアメリカまで野口の遺体を持ち帰りました。

野口の墓はアメリカにあり、人のために生きた、そして人のために死んだと書かれています。

今もその業績は忘れられる事がありません。

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  • 日本学術振興会
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