左手を手術した渡部医師に弟子入り

野口英世は、黄熱病や梅毒などの研究で世界的にも知られている細菌学者である。

彼は1876年に福島県の現在は猪苗代町である、耶麻軍翁島村にて生誕し、幼ない頃は清作という名であった。

生誕後、1歳で囲炉裏に落ちて左手に火傷を負い障害が残ることとなる。

そこで清作は学問の道を歩むことを決意するのである。

優秀な成績を認められ高等小学校に入学し、その後左手の手術を受け不自由ながらも指が使えるようになり、このことに感動を覚えたことを切っ掛けに医師を目指すことになったのである。

高等小学校を卒業後は、自分の左手を手術した渡部医師に弟子入りをする。

ここでも「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という言葉を口癖にし、勉学に勤しんでいた。

そして、医師免許を取る為に上京することとなる。

これは生誕後19年が経った時のことであった。

上京後、高山歯科医学院の講師である血脇の元で医学を学ぶ。

血脇の協力もあって学問に勤しむことができ、21歳で医師免許を取得する。

この頃に再度左手の手術を受け、臨床試験で必須であった打診が可能となったのである。

しかし、医師免許を取得するも開業資金がなく開業医を断念し、学者の道を歩むことを決心するのであった。

その後、血清療法などで当時医学界で世界的にも有名であった、北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に勤め始める。

また、この頃流行していた小説に登場していた人物が、野々口精作という名前で、野口清作の名に非常に似ていた。

しかもこの小説の人物は、借金を繰り返し自堕落な生活を送っているというものであった。

当時の清作自身も借金を繰り返したり遊郭に通う癖があった為に、清作はこの人物のモデルが自分であると邪推されることを懸念して改名を決意したのである。

ここで、高等小学校での恩師である小林栄に相談し、「英世」という名を与えられた。

清作として産まれてから21年経ってから、改めて野口英世という人物が生誕したのである。

英世として生まれ変わった翌年、横浜港検疫所の検疫官補となり、ペスト患者を発見し診断する。

この仕事ぶりが評価され、清国でのペスト対策として国際防疫班に選ばれたのである。

更に翌年、帰国して渡米した英世は研究を重ね、34歳で梅毒の純粋培養に成功し世界の医学界に名が知れ渡ることとなった。

その後も世界各地で研究を重ね続け、エクアドルで黄熱病の研究をし病原体を発見したのである。

英世は、その後黄熱病の研究を続け、51歳で自身も黄熱病に感染してしまう。

発症から5ヶ月余りで逝去することとなった。

亡くなってからも英世の人生は語り継がれ、偉人の代表とも呼べる存在となったのである。

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